どうもです。
本当は面白いんだか面白くないんだかわかんないような茶番をぶちかましてどっか行ってきました!なんて生存報告をしつつブログ更新!継続記録!と言いたいところだったのですが、どうもそんな気分ではないので今日は最初から本題です。
その昔、私はこんな記事を書きました。
タイトルの通り、何故自分が旅をしたいと思ったのかを考察した記事です。
みなさんは何故旅をするのでしょうか。写真を撮りたいからか、純粋に旅が好きだからか。考えてみると面白いかもしれません。
最近思うようになったのは、「自分、出かけすぎ説」という話です。
気が付いたら長野にいたり名古屋にいたり横浜にいたり、休みを取ったり見つけたりしてはどこかへ出かけているように思います。マジで出かけるか働くかしかしてない。
それ自体は大変良いことだと思うのです。が、この前こんなことを言われました。
「飽きないの?」
と。
私は一瞬何のことなのかわかりませんでした。
Google先生に聞いてみます。飽きるってなんですか。
(もう十分で)いやになる。飽(厭)く。
なるほど。もう十分でいやになることなんですね。初めて知りました。
ここまでわかりやすいと整理もできます。飽きるとはもう十分で嫌になること。
旅の話をしていて「飽きないの?」と聞かれたということは「そんなどこかへ出かけていてもう十分で嫌にならないの?」と言う意味ですね。
いや整理しましたがよくわかりません。どうしていやになることがあるのでしょう。
そりゃ旅をしていて嫌になることはあります。
雨が降ったり、カメラのバッテリーを入れ忘れていたり、SDカードが入っていなかったり、人身事故で運休になったり、雨で増水するからと足止めされたり。
でもそれらの「嫌になる」とは種類が違う気がします。考え直し。振出しに戻ります。
飽きる。もう十分になる。嫌になる。「旅」「出かけること」に対してそんな感情を抱いたことがなかったもので、よくわかりません。
なぜ飽きないのでしょう。
「飽きないな~」
そんな当たり障りのない返事でその場をかわしつつ、考えてみます。
何故飽きないのでしょう。
これが好きだから。ラーメン屋か?
どこかへ出かけるのが好きだから。答えになってない。
写真を撮りたいから。これも答えになってない。
ダメですね。答えが出ません。
そう思っていた時でした。
ある人のブログを見ました。白石紬ってアイドルに惹かれたオタクのブログです。#ui_memoっていうんですけど。寒いぞ。
ふと自分の書いたブログを見返した時。ツイートを見返した時。
ふと思ったのです。
知らない土地へ行くとき。日本国内とはいえ文字で見たことや言葉でしか聞いたことの無いような場所です。それはそれは行くのが怖かったです。
どんな場所なのか自分で見たことの無い場所です。
道がどう張り巡らされているのかもわかりません。目的の場所へ辿り着くには地図が必要な場所です。
でも怖さより楽しいという気持ちの方が強かったのです。
よく旅をする人間は日常だの非日常だのという言葉を好んで使います。偏見がすごい。
日常とは何でしょうか。あなたにとっての『日常』とは。
決まった時間に起き、決まった時間の電車に乗り、決まった時間に始まる授業を受け、決まった時間に飯を食い、決まった時間に帰り、決まった時間に寝る。
決まった時間に起き、決まった時間の電車に乗り、決まった時間に始まる仕事をこなし、決まった時間に飯を食い、決まった時間に帰り、決まった時間に寝る。
そんなことでしょうか?
では非日常とは。あなたにとっての『非日常』とは。
決まっていない時間に起き、決まっていない時間の電車に乗り、決まっていない時間に始まる授業を受け、決まっていない時間に飯を食い、決まっていない時間に帰り、決まっていない時間に寝る。
決まっていない時間に起き、決まっていない時間の電車に乗り、決まっていない時間に始まる仕事をこなし、決まっていない時間に飯を食い、決まっていない時間に帰り、決まっていない時間に寝る。
そんなことでしょうか?
私にとっての『日常』とは。いったいなんなんでしょう。
話がそれてしまいました。「自分、出かけすぎ説」の話でしたね。
それはそれはもういろんな場所に行きました。でもまだ足りません。
東北なんてまだほとんど未開の地だし、四国も中途半端。中部地方もまだまだだし、九州も行き足りない。北海道は途中でとんぼ返りさせられたし、なんなら兵庫の日本海側もほとんど行っていません。
ほんとに「出かけすぎ」なのでしょうか。
こんなのこのペースで行きたいところ上げて心行くまで全部回ろうと思ったら仕事辞めて20年ぐらいかけないと終わらなさそうです。
ちょっと前に書いた記事として『自分は何故旅をしたいと思ったのか』という記事を書きました。オチだけいうと、『昨日のことのように思い出せること』に魅せられたからと書いてあります。旅をする理由は素敵な思い出を作りたいから。そんな理由です。
でも今は違う気がします。
先程から言っている「自分、出かけすぎ説」の通り、毎月のようにどこかへ出かけているので素敵な思い出なんて多すぎるレベルで溜まっていっています。
それこそそのうち「飽きる」のではないかというほど。でも飽きる予兆が見えません。何故なのか。こんなにもあちこちいってちょっと前に買ったはずの2TBのHDDの半分を既に写真と動画で食いつぶしているのに。飽きる予兆すら見えない。
日常と非日常ってなんなんだろうという話をしました。
日常とは普段の生活のこと。非日常とはそうでないこと。書いてしまえばあたりまえのこと。
私は旅をするという非日常でも『非日常な旅』をした先で暮らしている人、店でご飯を出してくれる人、駅で切符を出してくれる人、この人たちが送っているのはきっと普段と変わらない『日常』です。一日何十人、何百人と相手をしている客のうちの一人。すれ違う人のうちの一人。そんなものに過ぎないのです。いくら自分が非日常だなんだのと騒ぎ喚き散らしたところで日常を送る警察にいつもそうやっているように手錠をするなりパトカーに乗せるなりして警察署まで連れていかれるのです。
では非日常とはいったいなんなんでしょう。
それは多分『自分一人』にしか送れないものなんだと思います。
わからなかったのでGoogle先生に聞いてみました。こんな時間にごめんね。いうてアメリカ出身だし実質昼か?
日常 ― つねひごろ。ふだん。
非日常 ― 日常的ではないこと、特に、通常の日常生活では体験できないような場面や状況、または経験などのことを幅広く指す言い回し。
だそうです。聞いてみると早いね。ほとんど解決してしまった。
自分自身は日常生活では体験できないような場面や状況、または経験などをしていても、そこに住む人たちからすればそれは常日頃やっていることに過ぎない。
客にご飯を出すのも、切符を売るのも、警察署に連行するのもやっている側は日常なのでしょう。たとえされている側が非日常だと思っていても。
ですがどうでしょう、自分がその日常を送る側になってみたときは。
常日頃、普段と変わら無いように、人間の個体が違うとはいえ『客』や『同僚』『会社の先輩』『上司』なんかと過ごしていると、普段とは違うことをやってみたくなるんじゃないでしょうか。少なくとも私はそうでした。
昨日のことのように思い出せることを作りたい。そう思って始まった『でかける』と言う趣味。
日常から抜け出して非日常な世界へ。知らない『日常』を見るために。
かといって、それこそ仕事辞めて20年ぐらいかけてやりたいかと言われるとそうでもないですね。日常があるからこそ非日常がある。そんな気がします。
『どこかへ出かけること』が日常になってしまっては、『でかける』をする意味が無くなってしまいます。そうなるときっと『働く』や『学校で勉強する』みたいなことを求めるんじゃないでしょうか。そうなったことがないのでわかりませんが、多分そうなると思います。
旅は良いものです。感慨に耽ることもできれば、楽しいことやつらいことまで全部できます。
きっとそんな非日常な世界を、日常から抜け出して体験してみたかったのでしょう。
日常に触れる非日常。家を一歩出るときの感覚から違う、いつも通り駅へ向かう道がいつもと違って見え、自分はこれから非日常なことをするんだという感情。
知らない土地へ行って文字で見たり言葉で聞いたことしかない地名や単語を実際に自分で見たり触れたり歩いてみる体験。
そんなことがしたくて家の玄関を開けたのかもしれません。
『外に出る』ということを知ってしまった以上、どこにあるかも分からない満足に至るまでそのドアを開け続けることになるでしょう。
「飽きないの?」と言われた時、「飽きないね~」なんて当たり障りなく何も考えず答えていましたが、今同じ質問をされれば同じ「飽きないね~」でも『なぜ飽きないのか』の理由までしっかりつけて答えることができると思います。
「自分、出かけすぎ説」は不立証ですね。いや傍から見れば出かけすぎなのかもしれませんが私は足りてないぐらいだと思っているので不立証です。不立証ったら不立証です。
おわり