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ういめも

タイトル

たわいもない日常が、突然失われることがある。

それは良い変化でも、悪い変化でも有り得る事だ。

 

しかし、日常とは何なのであろうか。

日々起こりうる些細な変化を含めて日常というのであれば、全てがそれで片付いてしまうのではないか。

 

良い変化といえば、例えば新生活が始まったであるとか、ひとり暮らしを始めたであるとかであろうか。

 

悪い変化といえば、まさに今現実で起こっていることがそうではないか。見えない相手との戦争。対策によって封じられた移動。それによって潰えた趣味等。

 

ほんの少し前まで、1ヶ月に1回どこかへ行ってはお出かけしすぎだのと言っていた自分も、月一お出かけ生活始まって以来初の3ヶ月以上の外出自粛を強いられている。

 

この場所では、度々日常とは何たるかについて触れてきた。それはその地で流れているものだとか、普段の何気ない生活であるとか。

対して非日常という言葉も多く使ってきた。旅をしている自分自身に流れている時間などを指して使っていた。

 

 

 

しかし、何気ない生活にも大小様々な変化はある。

先に述べた通り、日々起こりうる些細な変化を含めて日常というのであれば、全てがそれで片付いてしまうのではないか。

 

変化の中にお出かけが入るのであれば、それは非日常ではなく日常なのではないか。

そんなことを考えてしまう自分がいる。

 

根拠はないが、どこか特別な感覚でいた旅をしている自分ですらもたわいもない日常だったのではないか。

 

こうしたものは、失ってから気付くのか。

悪い変化が起きなければ、変わらず非日常と言って旅をしていたのかもしれない。

 

だが今、過去の自分がそうしたように旅を出来ると思わない。

失ってしまった旅をしている自分という日常。

深いことを考えず、思い立ったが吉日を座右の銘とし玄関を開けていた日々。そんなたわいもない日常。

 

この数ヶ月で失ってしまったものは、取り返しのつかない、とても大きなものなのかもしれない。